子曰わく、二三子、我を以て隠せりと爲すか。吾は隠す無きのみ。吾行うとして二三子と與にせざる者無し。是れ丘なり。
(先師が言われた。
「諸君は、私が諸君に何か隠しておると思うのか。私は何も隠してはいない。私は何事を行うにも諸君と共にしないことはない。これがありのままの私なのだ」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
他人に隠すことは何もない
自分の全ては明らかである
こんな人からは、 その度量の大きさが感じられます。
なぜ、そのように、全てを明らかにできるのでしょうか。
人に良く見られようと、開けっ広げな態度を意識的に取るのなら、清々しさや度量の大きさが醸し出されることはないでしょう。
清々しい人物は
もとより
人目を気にしていない
そして
他人は自分と共にある
と感じている
他人であっても
その根本は自分と同じ
そう信じている
なぜ、人の目を端から気にしなくてすむのでしょう、他人を信じられるのでしょう。
それは
天とともに生きているから
私たち〝 人 〟は、天の子です。
だから人同士は同等です。
皆同じだから
一緒になって
天が求める世の中を
創っていこうとするはず
何かあれば天と対話し
自分が為すべきことを知り
それを行う
天と対話するといっても、要するに自分の心の奥にある〝 良心 〟との語らいです。
この〝 良心 〟こそが、天が私たち全員に植え付けた〝 天の意思 〟です。
反対側の視点、隠し事があるという状態について考えてみましょう。
そのような状態から生じる態度とはどのようなものでしょうか。
きっと、その隠し事が露呈しないように、言葉で誤魔化そうとするでしょう。
天
そして自分の良心を
相手にできないまま
いかに他人を欺くか
その策略に溺れるだけ
一度隠し通すことができれば、自分が見下されるようなことは隠しておこうという動機が生まれます。
他人との会話では、自分の隠し事から遠い話題ばかりを探すことになります。
必然的に多弁な人になっていくでしょう。
とても見習いたい生き方ではありません。
常に〝 天 〟そして自分の〝 良心 〟に従って、清々しい人生を送りたいものです。
人を相手にせず
天を相手にせよ
天を相手にして
己を尽くして
人を咎めず
我が誠の足らざるを
尋ぬべし
(西郷南洲)