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COLUMNSブログ「論語と算盤」

八条目-実践課程

2025年6月10日

ものをただしてのちいたる。知至りてのちこころばせまことなり。意誠にしてのちこころただし。心正してのちおさまる。身修まりてのちいえととのう。家齊いてのちくにおさまる。國治まりてのちてんたいらかなり。

(自分を正せば知恵はおのずから澄んでくる。鏡のようにわが知恵が澄めば、意識や感情は正常になる。意識や感情が正常になると内なる心も正しくなる。心が正しくなることによっておのずから身が修まる。自分の身がよく修まると一家はよく和やかに調和する。一家がよく調和すれば、一国がよく治まる。一国がよく治まることによって天下はおのずから平安となり、明徳も個々人に明らかになるのである。)

<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

 前回の記述とは逆になっています。

 

しかしこれは単純に反対に記載しているのではありません。

 

前回が思惟の過程であり、今回が実践の過程とされています。

 

 

そして、これがいわゆる「八条目」と言われる内容です。

 

 

格物、致知、誠意、正心、

  修身、斉家、治国、平天下

 

 

八条目には段階的な印象を受けますが、そうではなく、同時的なものとのこと。

 

つまり、全ての民が、自分の置かれた状況での取り組みを正しく行えば、そのときに国は治まり、天下泰平になるということです。

 

 

 

 

一方で、自分自身に当てはめるとやはり段階的になります。

 

 

 中学生のころ、私の実家と隣家が不仲な状況にありました。

 

実家が本家、隣家が分家という関係でしたが、隣家の当主が身体を壊した辺りから雲行きが怪しなってきました。

 

本家の嫁である私の母に対する中傷や土地の境界線に対する文句など、早くに両親を亡くしていた私の父母は辟易していたものです。

 

ある年の正月、叔父たち一家がやってきて祝っているときその話になり、私も脇の方で何とか打開できないものかと考えていました。

 

そのときふと、妙案かどうかわからないまま、思いついたことがありました。

 

それは、一升瓶を携えて、隣家に正月の挨拶にいくのはどうか、というものでした。

 

叔父たちは目を丸くしていましたが、父親は不動のまま。

 

ただ、何もしないよりもマシという思いだったのか、母親と私とで実行することになりました。

 

その後、特に変化はありませんでした。

 

ただし、望ましい姿は近隣との協力体制でしょうから、悪くない一手だったと感じています。

 

格物、致知、誠意、とまではいかないかと思いますが、私としての一つの正道、王道と感じています。

 

 

 

 就職したとき、自分の生きる道を見出し、家族を養う自信がついてからでないと、絶対結婚はしないと決めていました。

 

仕事では苦難もありましたが、一筋の光を見出してからは前のめりとなり、積極的に取り組んだつもりです。

 

と同時に、恋焦がれる相手も見出すことができました。

 

今でも思いますが、自分の道、価値観が明確になってこそ、添い遂げる相手を見つけられるでしょうし、相手も私と一緒に生きていけるかの判別がつくはずです。

 

同じ方向に進んでいかねばならない夫婦、それはやはり、恋愛感情だけのつながりでは弱いと思います。

 

 

 

 そして子供が生まれました。

 

教育らしいことと言えばただ一つ

 

〝 嘘をつかないこと 〟

 

これはよく言い聞かせたつもりです。

 

 

 

きょくらいいはく、えうにはつねあざむきをしめ

 

(一人立ちできない幼子は、未だ無知ではあるが、始終、これに、あざむかないということを示さなくてはならない。人のすることはいつわりはない。人は信頼すべきものであるという感じをもたせることが肝要である。誠を教えるのである。)

<『小學』 内篇 立教第一  原典は『礼記 曲礼篇』>

 

 

 

正心、修身、斉家、と感じられる唯一の事柄です。

 

 

 

 

残るは

 

治国

平天下

 

全ての人たちと

 

 

<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>