暮夜無知の四字は、百悪の総根なり。人の罪は欺くより大なるはなし。欺く者は其の無知を利するなり。大姦大盗は皆無知の心によりて之を充たす。天下の大悪只二種あり。無知を欺くと、有知を畏れざるとなり。無知を欺くは還て是れ忌憚の心あり。此れ誠偽の関。有知を畏れざるは是れ箇の忌憚の心も無きなり。此れ死生の関。猶畏るる有るを知るは良心尚未だ死せざればなり。〔存心〕
(暮夜無知の語はわずか四文字に過ぎないけれども、これは人を欺くことであるから百悪の総合的な根である。人の罪は欺くより大なるものはない。欺くということはうそ・いつわりでその知る無きを利するのである、これに乗ずるのである。大姦大悪はみなその知る無きを利する心によっていろいろ悪事を拡充していく。天下の大悪も分ければ二種類あるだけである。知る無きを欺くと知る有るを畏れざるとである。
知る無きを欺くというのはまだどこかに忌み憚る心、何ものかを畏れつつしむという良心的な反応の心がある。この内心びくびくするという忌憚の心が誠と偽との分かれる関門である。ところが知る有るを畏れないというのは、これはもう忌憚の心もない。
人間にとって最も大事なものは敬恥の心である。敬恥の心が悪い方に働くと忌憚の心になる。従って忌憚の心を失ってしまったら、これはもう正に死の道である。まだ人に知られては困るという間は良心が死に切っておらぬからである。)
<出典:「呻吟語を読む」安岡正篤著 致知出版社>
人である、人でなし
両者の区分けが忌憚の心の有無
21世紀入り後の犯罪は、質的に悪化してきているようです。
恨み辛み、憎悪や嫉妬、復讐などという自己中心的な動機より、社会的弱者や弱点を突いて自らの欲望を満たそうとする犯罪が増えてきているようです。
まさに忌憚の心が無い犯罪です。
大元の首謀者は、人でなしであり、自律した心を持っていません。
いうなれば、悪魔に自分の心と精神を完全に掌握され占領されています。
この悪党どもは、まだ忌憚の心が残っている小悪党を使って、私たちの社会を破壊します。
納税者名簿を盗ませる、空き巣や強盗を行わせる、これらを実行させるために小悪党どもを脅迫という手段で縛り付けているようです。
戦後、我が国は経済発展を遂げましたが、良くない副産物も多く生まれました。
公害、核家族化、地方の過疎化、精神疾患の広がり、そして金銭崇拝という風潮。
金銭が少なければ失格というような感覚は、学校教育の現場にさえ浸み込んでいるようです。
そして、社会に出て収入を得る目的が、自分の欲を満たすためとなっています。
その意識は、きちんと生きて社会を質的に良くしようという心より、周囲の要素を消費し切ってでも、少々なら他を犠牲にしてでも、自分さえ、今さえ良ければという方に向いているようです。
そしてこの風潮は、収入が少ない人や忌憚の心が薄い人などを悪事に誘う要因にさえなっています。
人目を憚ることなく
見られていなければ
バレなければやってしまえと
現代社会のこのような風潮は
放っておけば限りなく悪化の道を辿ります
・経済学では、「市場の失敗」と認識される事柄があります。
・社会でも、「自由の失敗」を認識する必要があるようです。
義務を果たしてこその権利
この普遍の真理について
もっと認識を高める必要があります
今日取り上げた一説の冒頭にある「暮夜無知」という言葉の由来について、安岡師は詳しく記されています。
『“暮夜知る無し”は関西の孔子といわれた後漢末の名高い楊震の故事であります。楊震は字を伯といい、地方長管から後には宰相となって天下の重きに任じた人でありますが、博学にして清廉、本当に誠実・真実に徹した人であった。その楊震が東莢の長官をしておった時のことであります。
自分の支配地を巡察して昌邑というところに至ったところが、かつて目をかけてやったことのある王密という者が夜分密かに訪ねてきて金十斤を遣ろうとした。(今流行りの賄賂をおくろうとしたわけです。)楊震はそれをみて「私は昔から君をよく知っておるつもりだが、君にはその私がどうしてわからないのか」といってきっぱりとこれを拒否した。
ところが王密といのはよほど勘の悪い男とみえて「いや、夜のことで誰もみておりませんからご心配いりません」という。そこで楊震はこういって誡めた、「天知る、神知る、我知る、子知る何をか知るものなしといわん」と。これにはさすがの王密も愧じて室を出て行ったという。これを楊震の「四知」といい、「暮夜無知」の語と共に中国の歴史上に名高い故事となっておるわけです。』
小悪党、ましてや大元の悪党を
生み出さない国創りは
一人一人が
自分の内面と対峙、対話、自省し
天とのつながり、神からの使命を感じる
こういう人の心を生み出す風土
それを育むことからしか始まりません